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読書-歴史(日本:近世):雨読夜話

ここでは、「読書-歴史(日本:近世)」 に関する記事を紹介しています。



水野 伍貴 (著)
星海社 (2023/9/21)


関ケ原の合戦について、通説や近年の新説などを紹介した上で合戦の前日から当日はこんな感じだったのでは?と考察している作品。

「石田三成らが大垣城から関ヶ原に移動したのは小早川秀秋の寝返りを知ったことによる対応」、「大谷吉継が豊臣秀頼を迎えるための玉城を築城していた」、「小早川秀秋は合戦直後に寝返って短時間で合戦が終わった」といったここ10年くらいで出ている説に対し、史料から批判的なスタンスで書かれている。

関ヶ原の本戦の少し前は、東軍の先遣隊が赤坂などに布陣して大垣城に入った石田三成らの西軍、それと援軍として南宮山に布陣した毛利秀元ら西軍と対峙、そこに家康が率いる東軍の本隊が到着したことで戦力バランスが崩れたことで、大垣城の西軍が夜間に移動して関ヶ原に布陣したことが書かれている。

そこから北側を移動してきた石田三成、島津豊久、島津義弘らの隊が、南側を移動してきた宇喜多秀家と元から周辺に布陣していた大谷吉継らの隊が、街道を突破しようとする東軍を迎撃する構図になっている。

小早川秀秋の寝返りのタイミングは、問鉄砲という非現実的な理由ではなく、霧が晴れて松尾山から戦況が分かってから大谷隊に攻めかかったようで、本書の主張通りであれば全体的な流れとしては通説に近い部分も多かったということになる。

正直、新説とその批判はどちらが妥当なのかはよく分からないものの、論点のいくつかが分かったのが良かった。




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渡邊 大門 (著)
PHP研究所 (2023/4/5)


3年前に読んだ『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』を加筆・文庫化された作品。

関ケ原の合戦については軍記物や江戸時代の記録、小説などで作られた説が多く、史実は必ずしもドラマチックなものとは限らず、後世の人の都合によって史実が捻じ曲げられる事情が分かるのが改めて興味深い。

合戦になる過程で東国で上杉征伐軍に参加していたら西軍に参加しにくく、上方にいたら東軍に参加しにくい事情はどうしようもなく、そこで脇坂安治や田辺城攻めに参加していた何人かの大名のように家康側近たちに書状を送るなどしてうまく立ち回れたかどうかが存続を左右したことが分かる。

逆に言うと、上杉討伐軍に参加していた大名の中には石田三成などに味方したいと書状を送り、合戦後に必死に証拠隠滅したり弁明して許された者もいたんじゃないかと思った。

処刑されたり家が断絶した石田三成、直江兼続、安国寺恵瓊らが悪者にされ、記録を残した吉川家や黒田家などが祖先を美化した話も分かりやすい。

改めて読み直しても、分かりやすく解説されていることを再認識できた。




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関連タグ : 渡邊大門,


スエヒロ (著)
大和書房 (2019/6/20)


戦国時代の人物がSNSやインターネットをしたらこのようになっていたのではないか?というお遊びをしている作品。

長篠の合戦前後の検索結果がバレた武田勝頼、Yahoo!知恵袋で本能寺の変前後の行動について相談している明智光秀、TwitterのDMで大徳寺木造事件を秀吉から追及されてしまう千利休などの部分が、緊迫感があって面白い。

サイトのデザインの再現や、スマホのキャリア名がdagyamo(尾張)、hidemo(秀吉)、SoftBakufu(幕府)、AkiU(安芸)などになっていたり、家紋のボタンになっているところなども芸が細かくて楽しい。

伊達政宗のLINEのBGM設定が、のぶみょん「敦盛ゴールド」というのも、じわじわくる。






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平山 優 (著)
戎光祥出版 (2015/7/10)


本能寺の変後に旧武田領国だった甲斐、信濃、上野が混乱状態に陥って徳川、上杉、北条の三氏が争奪戦を繰り広げた「天正壬午の乱」と呼ばれる戦乱を細かく解説している作品。

前段階の武田氏滅亡から話を始めていて、まず信長によって武田家の一門や甲斐の有力国衆の多くが処刑された一方、信濃や駿河、上野の国衆たちは領国を安堵された者が多かったことが背景になったことが語られている。

そして本能寺の変後に甲斐の河尻秀隆は家康家臣の本多信俊を暗殺したことで本多の家臣や一揆に殺害され、上野の滝川一益は北条氏と神流川の合戦で大敗して本国の伊勢に退却、信濃に領地があった森長可や毛利長秀も撤退と織田系の領主たちがいなくなり、徳川家康、上杉景勝、北条氏直が乗り出した他、木曾義昌や真田昌幸、小笠原貞慶、保科正直、諏訪頼忠といった信濃の有力国衆たちも自立の動きを見せている。

上杉景勝は信濃北部の川中島四郡は支配できたが新発田重家の反乱が激化したためそこまでで止まり、家康は甲斐を支配して信濃に酒井忠次を差し向けたが諏訪や小笠原との交渉に失敗して劣勢となり、北条氏直は大軍を率いて上野から信濃、甲斐に攻め入ったが戦略ミスで深入りしすぎて動きが取れなくなるなど、それぞれで誤算がいくつも発生している。

この戦乱の山場としては家康軍と北条軍が対陣した若神子の陣で、家康軍は4倍以上の兵力がある北条軍と敵対した形だが、
  • 各方面の局地戦で北条軍に勝利
  • 家康についた甲斐の国衆によるゲリラ戦で、北条軍の兵糧の補給ルートを遮断
  • 信濃で家康方の依田信蕃からの働きかけで真田昌幸が北条方から家康方に寝返る
  • 織田家による駿河方面への援軍や木曾義昌への工作
  • 家康から「東方の衆」(佐竹氏を中心に結城氏や宇都宮氏など北関東の反北条勢力)への働きかけ
など、打てる手を着実に打って徐々に情勢を逆転し、北条は上野、徳川は甲斐・信濃を勢力範囲とする形で和睦を結ぶことに成功している。

ただ、それぞれが信濃の国衆たちを味方につけるために実現が困難な手形を乱発してしまったため、その後真田や木曾、小笠原などが家康に反乱を起こして秀吉に付け込まれるなど、代償も大きかったことが書かれている。

本書を読むと家康が関東移封後に酒井忠次の息子の家次に3万石しか与えなかったのは信濃攻略戦での度重なる失策が査定されたのでは?と思ったり、関東移封によって木曾、小笠原、保科といった国衆を根拠地から引きはがすことで統治しやすくなっただろうと思ったりもした。

歴史の教科書や読み物では家康が火事場泥棒的に甲斐・信濃の支配に成功したように書かれているものもあるが、本書を読むと2ヵ国を攻め取るのはそう簡単にいくものではないことや、さまざまなIFがありえたこと(例えば酒井忠次がもう少しうまく交渉できたらとか、北条氏直が真田昌幸らの助言を受け入れていたらとか)、家康が織田領国を北条や上杉から守るという大義名分を得て軍事行動を起こすというスタンスはその後の言動ともつながってくるなど(多分)初めて知ることが多く、非常に読みごたえがあった。





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盛本 昌広 (著)
KADOKAWA (2022/10/24)


家康と同族で家臣となった、深溝(ふこうず)松平家の当主・松平家忠が、徳川VS武田で合戦をしていた時期から秀吉が亡くなる前後あたりまでを書き残した『家忠日記』を読み解き、家忠のキャラクターや生活、人間関係などを紹介している作品。

『家忠日記』は信長・秀吉・家康の事績などを研究する上で第一次史料として参照されることが多く、その家忠は関ヶ原の合戦前に鳥居元忠らとともに伏見城に籠城して西軍と戦い、戦死を遂げている。

家忠は父・伊忠が長篠の合戦で戦死したことで若くして当主となり、家康から重臣の酒井忠次(引退後はその子の家次)から指示を受けて国境にある城の警備を交代で務めたり、城の普請をするシーンが多く、戦闘時以外の武将たちの活動が分かって興味深い。

また、竹谷、形原、青野、五井といった松平諸家や、縁戚関係がある鵜殿、水野、跡部、戸田といった諸家の人々との交遊関係(振舞と表現)が描かれていて、家忠は特に連歌をたしなむことが多い。
また、上方から茶の湯のブームが流れてくると、茶室を作って知り合いに見せびらかす話が書かれているのも楽しい。

度重なる普請への駆り出しや軍需物資の供給を課されて借金に苦しんだり、家康の代官である伊奈忠次や板倉勝重などに気を遣うなど、現代と似た人間関係というようにも感じられる。

家忠は深溝を領地としていたのが、家康の関東への国替えに伴って武蔵の忍(おし)、そして下総の上代(かじろ)に引っ越しをしていて、特に先祖代々住んできた深溝からの移動は大変だったのだろうと思われる。

人によって興味深い話、興味を持ちづらい話が分かれるところも多いが、全体的には1人の戦国武将の活動を時系列で知ることができるのは読んでいて興味深いと思う。





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